ミヤタブログ

’94年生まれの25歳。中京大中京サッカー部→筑波大学蹴球部。大学4年時にインカレ優勝を経験。現在は東証一部上場電機メーカーで営業マンをしています。このブログは僕が感じたこと、考えたこと、そして今までの体験からの学びを発信していくためのものです。少しでも共感、応援してくださる方がいれば幸いです。

自分のことだけ考える。

先日、ホリエモンこと堀江貴文氏の著書である「自分のことだけ考える。」を読み終えた。

 

私は自分で言うのも何だが、周りをよく見ている。むしろ見過ぎなのかもしれない。

 

良く言えば、「気が利く」「空気が読める」

悪く言えば、「ビビり」「人の目を気にする」

 

こんな感じだろうか。

この言葉、この行動、もっと言えばこの表情、立ち居振る舞いは、相手にどう思われるだろうか。そんなことを考えてしまう時がある。

 

でもこの本を読んで、そんな自分は本当に無意味なことをしてるのではないかと思えた。

 

なぜか。

人は自分のことだけを考えればいいからだ。

自分がやりたいこと、見たいもの、行きたいところ、全部やれば良い。

 

言いたいことを言って、やりたいようにやる。

それでいいんだ。

 

だって、私たちはそんなにすごくない。

自分のことだけで精一杯だ。

周りを気にして、周りに影響を与えて、周りを快くさせることができる。そう思っているのがおこがましい。

 

今は職場にいる人全員が年上。先輩、上司だ。

私は1番の下っ端。当然周りの目を気にしてしまう。

でも、それでもまずは自分。

自分のことだけ考える。

やりたいこと、言いたいこと、思い切ってやってみる。それが会社や部署、いろんな形で成果になれば良い。

 

頑張ろう。自分が経営者になったつもりで。

自分で利益を上げてこよう。絶対できる。

ストレスという言葉の誕生が病気を増やした

お久しぶりです。

社会人1年目を走り抜けております。

 

社内での昼食中。

同期入社の女性が、

「最近胃が痛む」と言ってきた。

「原因はわかるの?」と聞くと、ストレスかもしれないと。

 

私たち新入社員は、正直わからないことだらけだ。失敗もするし、何をするにも時間が掛かる。だからこそ毎日必死で食らいつくし、指導をしてくれる先輩方や上司に、少しでも貢献しようと努力する。

 

私の同期は、最近ミスが続いて先輩から注意をされてしまったそうだ。

こんなこともできない自分。

周りに迷惑を掛けている自分。

そんな自分に嫌気がさして、ストレスに感じているそう。

 

正直アホらしいと思った。

 

何を悩む必要があるのか。

失敗なんて何も怖くない。

人は失敗をした時のみ成長すると思う。

むしろ新入社員の今だからこそ失敗するべき。

 

なぜ、失敗せずに仕事をやり通せると思っているのか。訳がわからない。自分に期待し過ぎだ。

 

自分はダメだ。自分は甘い。自分は無能だ。

それでいい。だったら這い上がろう。強くなろう。

 

私はこのメンタリティで駆け上がってやろうと思う。

成功者の共通項

新社会人としての生活が始まって早3週間。

これから俺はどうなっていくのか。

場所も、人も、行動も、すべてが新鮮だ。

不安?

ない。なるようになるだろう。それに俺なら何とかできるだろう。そんなことを考えている間に、どんどん月日が経っていくのかもしれない。

 

組織の中には、いろんな人がいる。

「あー、この人はきっと優秀なんだろうな」と思う人には、1つの共通点があった。

それが姿勢の良さだ。立ち姿がきれいで、大股で急いでいるように感じないが、歩行スピードは速い。そんな人は、自然と格好良く、そして仕事ができそうに見える。

執行役員や常務まで上り詰めるような人の講話をたくさん聞いた1ヶ月だったが、そういった人たちは全員背筋がシャンとしていた。

まだ俺には仕事が与えられていない。少しでもそういった人に近づけるように姿勢だけは気をつけようと思う。

 

 

 

ゆとり世代が体罰を肯定してみた

昨今、「体罰ダメ、ゼッタイ。」みたいな内容の記事やニュースが取り沙汰されている。

最近では、言うことを聞かない生徒の手の甲を叩いただけでも体罰になるらしい。そんなことで懲戒処分なんかになってしまったら、やってられないだろう。

 

学校教育法第11条

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

 

こんな法律がある。

実は、僕も教員免許を持っているし、実際に教育実習も経験した。さらに言えば、平成6年生まれ。ゴリゴリのゆとり世代だ。

体罰が良いとか悪いとか議論する以前に、体罰は法律上行ってはいけないものだということは理解している。

 

 

だから、これから話す体罰については教育現場ではなく、競技スポーツの世界でのものだという前提で話をしたい。

 

まず僕自身の話をさせてもらう。

僕は5歳の頃からサッカーを始めた。小学3年生から県内屈指のクラブチームに入団し、サッカーに本気で打ち込むようになった。

小学、中学、高校、大学と全てのカテゴリーで全国大会に出場した。ある程度、レベルの高いところで常にプレーを続けてきたと言えると思う。

そして、僕は小学、中学、高校時代に今ではかなりの問題になるような体罰を受けながら、サッカーをしていた。

 

小学3年

相手にファールをされて、足を痛めてしまった。グランドで倒れていると、監督がこう言った。

 

「ガキじゃねーんだから、さっさと立て」

 

怖かった。ここでは甘えは許されないと小3ながらに感じたのを覚えている。

 

小学5年

試合でいいプレーができなかった。ベンチに戻ると、監督がブチ切れていた。監督と僕の距離は5〜8mほど。至近距離から監督が僕に向かってボールを蹴った。お腹に直撃したのを覚えている。

 

中学1〜3年

中学生になり、もちろん指導者も変わった。次の指導者は、ブチ切れると中学生相手でも容赦がなかった。ゆっくりと僕に近づき、鼻と鼻がくっついてしまう距離から罵声を浴びせられる。ヤンキー同士の喧嘩シーンでよくあるやつだ。あれを一方的にやられる。それが怖くて、チームを去った友達も多かった。

 

高校1年

正直この監督が一番すごかった。日常的に体罰というか、暴力が行われていた。

ロッカールームで、ボールの上に座っていた先輩は、監督の前で正座をさせられ、顔がパンパンに腫れ上がるまで殴る蹴るの暴行を受けていた。もちろん血だらけだ。まったく話を盛っていない。

練習中、ミスをした先輩がいた。胸ぐらを掴まれ、顔面を殴られていた。先輩は一度殴られるごとに一歩ずつ後退していく。殴られて後退し、殴られて後退しを繰り返しているうちにグランドの端から端まで横断していた。もちろん、この先輩も血だらけになっていた。話はまったく盛っていない。

もちろん僕自身も食事中に話をしていたという、理不尽すぎる理由でボッコボコにされたこともある。

遠征中の晩ご飯に出された生卵を、思い切り投げつけられた人もいれば、

「ヘディングの練習だ!」とポストや地面に何度も頭突きをさせられた選手もいた。

 

 

とここまでパッと思い出した事を書いたきたが、もちろんこれはほんの一部に過ぎない。

そして、僕が高2.3年の頃に全国的に体罰が問題になり始め、それと同時期にこの監督は、僕たちの前から姿を消した。

 

次の監督は、体罰が問題視され始めた時期であることもあってか、体罰は一切しなかった。もちろん声を荒げて怒鳴られたり、罰走などはあったが、正直まったく苦しくはなかった。

 

 

高1の時の僕には恐怖心しかなかった。いつ殴られるか、いつ蹴られるか。

そんなことに怯えて、サッカーを楽しむ余裕などなかったし、監督に怒られないようにという気持ちばかりだった。

 

それでも僕たちは県大会を制覇し、冬の全国大会に出場することができた。

その要因の1つに、僕たちはすごく仲が良さが挙げられると思う。

「監督に怒られないように」という理由ではあったかもしれない。それでも選手一人一人が、協力して、お互いを助け合っていた。ボコボコにされた選手がいれば、その選手をみんなが庇うし、監督がいないところでフォローをしあった。

監督がヒール(悪役)となることで、僕たちは1つになれていた。

 

高校生という、心身ともに大人に近づいていく時期に、あれ程の恐怖心、緊張感、痛み、悔しさ。さまざまな経験をできたことは、今の僕の大きな財産になっていると思う。

 

高校卒業から5年が経った。

高校のサッカー部のメンバーは、全国に散り散りとなったが、年に1度全員が集まるようになっている。

そこで話題になるのは決まって、高1のときのことだ。

あの怒られ方は可愛そう!とかボコボコにされた後の泣き顔がウケた!とかそんな話をする。もう笑い話になっている。あの頃を引きずって心に傷を負っている人など誰もいない。

 

ほとんどの人が今は就職して、社会人として闘っている。だが、あの時以上に苦しいことなど1つもないと全員が言う。

 

 大学への進学が決まった時、就職先が決まった時。僕は、高1時代の監督に連絡を入れた。

電話する前は怖くて仕方がなかった。脇汗を尋常じゃない量かいていた。

僕が要件を伝え終わると、今まで一度も聞いたことのないような、優しい声でがんばれよと返ってきた。あれほど怖かった監督がそんなことを言ってくれると思っていなくて唖然とした。

 

もしかしたら、監督の本当の姿は電話越しの監督だったのかもしれない。

 

徹底的にヒール役になることで、僕たちの精神力、忍耐力、チーム力を鍛えてくれていたのかもしれない。

 

僕は体罰に育てられた最後の世代だ。

だからこれからの世代は、ダメだ!とか精神力がない!とか、そんなことは言わない。

 

それでも体罰や、理不尽なことでも乗り越えてきた同志たちを僕は尊敬するし、本当に困った時、そういう人たちと協力して乗り越えていきたいと思う。

 

ゆとり世代体罰を肯定する

そんな話です

 

台風の日に起きた奇跡の話

2017年10月22日。多くの人が大型の台風21号の被害に遭った。そこには当然、僕も含まれる。ただ、被害に遭ったが故の、奇跡が僕に起きた。

今日は、そんな奇跡の話をする。

 

僕の住まいは関東地方である。都心まで電車に乗って1時間と言ったところだ。学生という身分に甘んじて、親の脛をかじって生活している。かじるなんて表現では物足りない。むしゃぶりついている。それほど親の脛は美味い。ただ、それではやはり生活するので精一杯だ。時間がある今だからこそ、お金をかけてやりたいこと、見てみたいもの、行きたい場所がある。

僕はお金が必要になると、日雇いのバイトに入るようにしている。やはりアンダーグラウンドな仕事が多いため、高給なものが多い。体育学生ということもあり、その有り余る体力を消費するのには丁度いいのも理由の1つだ。

 

今回は八王子でのバイトに出掛けることになった。2日間に渡ってのバイトである。2週間ほど前に時給1400円交通費全額負担という、破格の給料に目が眩み即応募した。当然だが、この時は、丁度その2日間に大型台風が直撃するなど誰も予想していない。

 

そして、バイト初日。この日は2時間ちょいの研修のみで終わった。2時間のために片道1時間の距離を移動するのは気が引けたが、2日目は12時間の労働が待っているため、日給で1万5000円以上のお金をいただくことができる。そのための助走段階だと思えば、なんてことなかった。

 

研修を終えた僕は、一人暮らしをするアパート(オアシス)に帰るはずだった。台風さえ来ていなければ…

台風の影響で電車が大幅な遅延や運転見合わせをしていたのである。僕は人混みが苦手だ。電車で帰ろうと思えば帰ることはできたが、遅延や運転見合わせによって、どの電車も圧倒的な満員電車だった。さずがは東京と言うべきか。本当にもの凄い人の量だった。

 

結局僕は、明日も同じ場所に出勤ということもあり、八王子市内のネットカフェで一晩を過ごすことに決めた。その判断が、今となっては正しかったのか間違っていたのかは、わからない。

 

自慢のiPhone7(8とでもXでもない)を駆使し、駅付近のネットカフェを探す。

①シャワーを浴びることができる。

②安値。

この条件のみで、数あるネットカフェをふるいにかけていく。そして僕に選ばれたキングオブネットカフェ@八王子で僕は朝までの9時間を過ごすこととなった。

 

案内された部屋はフラットシートというもので、体操の授業などで使うようなマットが敷かれ、そこにクッションだけがある部屋だ。寝るには最高の部屋となっている。この部屋を案内され、1人になった瞬間「まじ最高かよっ」とJKみたいな口調で口ずさんでしまうくらいに最高の部屋だった。

 

明日は5時起きということもあり、早めにシャワー浴び、準備を済ませ、瞳を閉じて、君を描くよ。それだけでいい(平井堅)という感じ。よくわからないことを言ってしまった自覚はあるが、話を続ける。

このまま眠りにつくことができていれば、僕はきっと幸せだったと思う。

 

僕は親にどれだけ感謝しても足りないくらいの健康体である。もちろん耳も含まれる。

 

それが故、ある音が隣の席から聞こえてくる。

 

「くちゅくちゅくちゅくちゅくちゅ」

 

ん?

悪い予感が胸をよぎる、冷静になれよ。ミアミーゴ。(修二と彰)また変なことを言ってしまった自覚はある。

 

明らかに、やっている。何をやっているのかは言わないがやっている。これで、もしやっていないのだとしたら、どのようにして、この音を出しているのか。もうその音でしかなかった。台風の影響かは知らないが、隣人のあそこは大洪水だったのだろう。

 

しかも隣は女性のはず。部屋の前にヒールが置かれているのを僕はチラ見していたから知っていた。

 

どんな人がこんなことをしているのか。それが気になって気になって仕方なかった。そこに下心はない。本当だ。あるのは探究心、好奇心。

かつて人が宇宙を目指したように。ガガーリンが「地球は青かった」と言ったように。

僕も隣の席に辿り着き、こう高らかに宣言したかった。

「あそこは黒かった」と。

 

そんなこと考えずに寝ようと思っても、未だに聞こえているクチュクチュ音は僕の睡眠を妨害した。「スタンフォード式 最高の睡眠」を読んだばかりの僕の睡眠を。

 

30分ほど経っただろうか。隣からは、あの忌々しき音は聞こえなくなっていた。それでも僕の頭は一体どんな人なんだろうという考えでいっぱいだった。もちろん眠ることなどできない。

 

悪いことだと分かってはいる。どうにか少しでも覗くことはできないか。必死に背伸びをしてみる。覗けるはずがない…

どこか壁に隙間はないか。あるわけがない…

PDCAサイクル*を回し続ける。

*P=plan D=do C=check A=act

それでも僕は隣の席を拝むことはできなかった。本当に無力だ。

 

ふとバイトのことを思い出した頃には、もう4時を過ぎていた、今からでは1時間も寝ることができない。結局僕は一睡もできないまま、バイトに向かうことになってしまった。

これから12時間のバイトが待っている。しかし、僕は一睡もしていない。それは、木の枝一本持って戦争に行くのと同等の絶望感だった。

休むはずだったネットカフェで、僕は魂を根こそぎ削られてしまった。フラフラになりながらトイレに行き、部屋に戻ろうとした瞬間に奇跡は起きた。

 

隣の席が開いた。人が出てくる。

スローモーションに見えた。

やはり女性である。

顔は見えていない。

女性がヒールを履き振り返る。

鼓動が早くなる。

念願のご対面。

 

…………

 

目の前が真っ暗になる。頭は真っ白になる。

 

目の前には、中村俊輔似のおばさんが優しく僕に微笑んでいた

超一流になりたい人は読んだほうがいいよ

10000時間の法則」を聞いたことがありますか?

これはイギリスのマルコム・グラドウェル氏が提唱した、特定の分野で一流になるためには、10000時間それに関する練習をしなければならないという哲学です。

僕は、つい最近までこの法則の存在を知らなかったのですが、西野亮廣さん(キングコング西野)の「魔法のコンパス」という本を読ませていただき、その中で触れられており知ることができました。

そこに書かれていたのは、10000時間投じることで、その分野において100人に1人の人材になれるということです。ただ100人に1人程度では、それだけでお金を稼ぐことはできないということでした。

そこで、もう一つのことに関して10000時間を投じることによって、1/100×1/100=1/10000の人材となることができるということです。

これで、ある程度生きていくために必要な力は身に付けたと言えるそうです。ただ。西野さんの職業である芸人にしても、僕がやってきたサッカーにしても10000人に1人の人材では、決して満足できる数字ではありません。

本当の1流になりたいのであれば、さらに別のことに10000時間を投じることが必要になります。1/100×1/100×1/100=1/1000000の人材になることが求められます。

1つ目のスキルをA、2つ目をB、3つ目をCとし、三角形ABCの大きさが、その人の価値であり、需要であるということでした。だからこそ、AとBとCはより離れた分野のものがいいと仰っていました。

 

僕はこの考えを知って、いやこの本すべてを読ませていただいて、素直にすごいなと思いました。西野さんの考えは非常に参考になる部分が多く、世間のイメージは決して良くはないかもしれませんが、西野さんは天才なんじゃないかなと思ったくらいです。

 

ただ1点だけ、僕と考えが違うなと感じた部分がありました。それが、「AとBとCは、より離れたものがいい」という部分です。もちろん、西野さんのようにA(お笑い)、B(作家)、C(その他)のように、どの分野においても才能を発揮することができ、しっかりと結果を残すことができる才能を持っているならば、三角形は大きい方がいいのかもしれません。ただ、誰もが西野さんのように、多方面に力を発揮できるとは限りません。むしろ不可能に近いと考えています。

 

じゃあどうすればいいのか。僕の中では、三角形ABCはかなり小さなものでもいいと思っています。特にスポーツ選手などには、そういう人が多いのではないでしょうか。一つのことに打ち込み、その世界で超一流になっていくことも、ものすごく価値がある様に思います。

ただそんなことをいうと、一つのことに打ち込んでいては点Aになってしまうんじゃないかということを考える人がいると思います。ですが、僕はあくまで西野さんの3つのことに、10000時間を投じるという意見には賛成です。重要なのは、一つの分野を3つに細分化することです。一流のサッカー選手になりたいから、サッカーに10000時間投じてしまっては、残り2つの10000時間をどこに充てればいいのか、分からなくなると思います。そうではなく、サッカーを3つに細分化します。Aをサッカーの技術面(実際に自分がプレーする力)、Bをサッカーの観戦力(戦術理解や自分のプレーを分析する力)、Cを勉強(体の仕組みやトレーニング全般の知識)――――こんな感じです。

 

こんな人が意外と多くいます。高校3年間は、毎日6時間以上サッカーのトレーニングをしてきました。それでも結果が出なかった。自分には才能がない…みたいな。

そういう人に限って、何も考えずひたすらボールだけを蹴っていて、三角形ではなく点がチョコンと打たれているだけになっていると思うんです。それに高校3年間毎日6時間程度では、まったく10000時間に到達していません。それ程、一流の人材になるのは厳しいということです。

 

本当の一流になりたいのであれば、自分のなりたい姿を強くイメージして、そのために必要な3つのことに対して、それぞれ10000時間投じることが重要になるんじゃないかなというお話でした。

誰でも変われる方法見つけてしまった

僕、気づいちゃいました。

この自堕落な性格を一変させる、原動力となるものに気づいてしまったんです。

 

たった1つ。あるものを自在にコントロールすることさえ可能になれば、勇気が出なかった自分。継続できなかった自分。自分の嫌いな自分から卒業できることに、人生23年目にしてようやく気づきました!

 

このブログを始める時もそうなんですが、僕自身はあまり思い切った行動ができないタイプの人間なんです。やりたいことがあっても、やっぱりやめとこうってなったり、初めてなことは毎回嫌だなと思ってしまいます。慣れてる場所が好きなんです。

 

そこで、「なぜ僕はなかなか行動を起こさないのか」について自分なりの考察をしてみました。

 

まず僕は基本的にネガティブ思考なため、新しいことや苦手なことをする時には、常に失敗した自分を想像しています。そのため、そこでの新たな出会いや成功をイメージできていません。要するに、想像力(イマジネーション)の欠如が考えられました。

ただ想像力を身に付けたところで、うっすらと成功する自分の姿の上に、はっきりとした失敗する姿が、より一層濃くイメージされてしまう気がしたので、これは違うなと思いました。

 

次に、好奇心(探究心)です。これは、僕にだってありますよ。何か知らないことを知りたいと考えたり、自分以外の誰かを理解したいと思う気持ちです。でも、今ってインターネットの力で何でも知ることができちゃうじゃないですか。百聞は一見に如かず。とか言いますけど、インターネットで一見できちゃうんですよね。いやいや、直接見るのが一見だから!とか言われちゃいそうですが、全く想像すらつかないのと、写真が見れちゃうのでは好奇心の駆り立たられ方が違いすぎると思いませんか?

だってエレンやアルミンだって、壁の外にはどんな世界が広がっているのか知りたくて、死の危険がある壁の外に行くわけじゃないですか。海っていう、塩水いっぱいの場所があるらしいよ!どんな景色なんだろう…?って想像するから、行動できるじゃないですか。進撃の巨人の世界がインターネットの発展している現代だったら、誰一人壁の外に出ようとしないと思うんです。

 

これからの世の中は好奇心(探究心)を持ちづらいものになっていくんだと思います。そういう意味で、これもまた違うなと思いました。

 

そんな感じで、いろいろな理由を検討しましたが全く答えが見つかりませんでした。

 

あーーーー!なんで僕はこうなんだ!だからダメなんだよー!!!このカス!!

 

ん?あれ?ん?ちょっと待って。これじゃね!

 

なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだ…。人にとって最大の原動力になるもの、それは「怒り」ではないでしょうか。

 

逆転の発想をすればよかったんです。やらなければいけないこと、やるべきことを、やる方法、そのための原動力を考えるのではない。人として絶対にやってはいけないこと、やるべきではないこと。それをやってしまう時の原動力が、人にとって最大の原動力だと思うんです。

 

だって極論、好奇心や探究心、イマジネーションで殺人をする人はいませんよね。でも愛していた人を奪われた怒り、必死で働いて貯めたお金のトラブルによる怒り、自分の心を弄ばれた怒り。怒りによって我を忘れ、人はそのような行為に至ると思うんです。

 

ナルトだってルフィだって、火影になる!とか海賊王になる!とか自分の欲を言ってる時よりも、仲間を傷つけられて「お前だけは、ぜってぇ許さねー!!!」ってなった時の方が、強いじゃないですか。ボス級の敵を倒すとかって大体そうだと思うんです。

怒りを力に変えることで、自分が想像も付かないようなエネルギーに変換されるんじゃないかなと思いました。

 

でもここで問題になるのが怒りって、負の感情じゃないですか。現実世界において、怒ってる人が共感されることって、本当に少ない。それがどれだけ正論をかましていたとしてもです。

 

怒りを力に変え、必死で努力して何かを成し遂げたと思ったら、自分の周りには誰もいなくなっていた。なんて悲しいことが起こるリスクと隣り合わせな気がします。

 

そこで大切になるのが、怒りのベクトルです。怒りをどこに向けるのか。周囲の物や人ではなく、常に自分に怒りのベクトル向け続けることが重要だと思いました。

 

「こんな自分に腹が立つ!むかつく!カス!」

「こんなこともできない自分が大嫌い!」

そんな感情が、人は突き動かす原動力になるんじゃないでしょうか。

 

自分を変えたい。新しいことに挑戦したいと思っているけど、行動に移せない人たちは、気持ちの軌道を少しだけ変えてみると、案外すぐに変われたりするかもしれませんね。という話でした。