台風の日に起きた奇跡の話
2017年10月22日。多くの人が大型の台風21号の被害に遭った。そこには当然、僕も含まれる。ただ、被害に遭ったが故の、奇跡が僕に起きた。
今日は、そんな奇跡の話をする。
僕の住まいは関東地方である。都心まで電車に乗って1時間と言ったところだ。学生という身分に甘んじて、親の脛をかじって生活している。かじるなんて表現では物足りない。むしゃぶりついている。それほど親の脛は美味い。ただ、それではやはり生活するので精一杯だ。時間がある今だからこそ、お金をかけてやりたいこと、見てみたいもの、行きたい場所がある。
僕はお金が必要になると、日雇いのバイトに入るようにしている。やはりアンダーグラウンドな仕事が多いため、高給なものが多い。体育学生ということもあり、その有り余る体力を消費するのには丁度いいのも理由の1つだ。
今回は八王子でのバイトに出掛けることになった。2日間に渡ってのバイトである。2週間ほど前に時給1400円交通費全額負担という、破格の給料に目が眩み即応募した。当然だが、この時は、丁度その2日間に大型台風が直撃するなど誰も予想していない。
そして、バイト初日。この日は2時間ちょいの研修のみで終わった。2時間のために片道1時間の距離を移動するのは気が引けたが、2日目は12時間の労働が待っているため、日給で1万5000円以上のお金をいただくことができる。そのための助走段階だと思えば、なんてことなかった。
研修を終えた僕は、一人暮らしをするアパート(オアシス)に帰るはずだった。台風さえ来ていなければ…
台風の影響で電車が大幅な遅延や運転見合わせをしていたのである。僕は人混みが苦手だ。電車で帰ろうと思えば帰ることはできたが、遅延や運転見合わせによって、どの電車も圧倒的な満員電車だった。さずがは東京と言うべきか。本当にもの凄い人の量だった。
結局僕は、明日も同じ場所に出勤ということもあり、八王子市内のネットカフェで一晩を過ごすことに決めた。その判断が、今となっては正しかったのか間違っていたのかは、わからない。
自慢のiPhone7(8とでもXでもない)を駆使し、駅付近のネットカフェを探す。
①シャワーを浴びることができる。
②安値。
この条件のみで、数あるネットカフェをふるいにかけていく。そして僕に選ばれたキングオブネットカフェ@八王子で僕は朝までの9時間を過ごすこととなった。
案内された部屋はフラットシートというもので、体操の授業などで使うようなマットが敷かれ、そこにクッションだけがある部屋だ。寝るには最高の部屋となっている。この部屋を案内され、1人になった瞬間「まじ最高かよっ」とJKみたいな口調で口ずさんでしまうくらいに最高の部屋だった。
明日は5時起きということもあり、早めにシャワー浴び、準備を済ませ、瞳を閉じて、君を描くよ。それだけでいい(平井堅)という感じ。よくわからないことを言ってしまった自覚はあるが、話を続ける。
このまま眠りにつくことができていれば、僕はきっと幸せだったと思う。
僕は親にどれだけ感謝しても足りないくらいの健康体である。もちろん耳も含まれる。
それが故、ある音が隣の席から聞こえてくる。
「くちゅくちゅくちゅくちゅくちゅ」
ん?
悪い予感が胸をよぎる、冷静になれよ。ミアミーゴ。(修二と彰)また変なことを言ってしまった自覚はある。
明らかに、やっている。何をやっているのかは言わないがやっている。これで、もしやっていないのだとしたら、どのようにして、この音を出しているのか。もうその音でしかなかった。台風の影響かは知らないが、隣人のあそこは大洪水だったのだろう。
しかも隣は女性のはず。部屋の前にヒールが置かれているのを僕はチラ見していたから知っていた。
どんな人がこんなことをしているのか。それが気になって気になって仕方なかった。そこに下心はない。本当だ。あるのは探究心、好奇心。
かつて人が宇宙を目指したように。ガガーリンが「地球は青かった」と言ったように。
僕も隣の席に辿り着き、こう高らかに宣言したかった。
「あそこは黒かった」と。
そんなこと考えずに寝ようと思っても、未だに聞こえているクチュクチュ音は僕の睡眠を妨害した。「スタンフォード式 最高の睡眠」を読んだばかりの僕の睡眠を。
30分ほど経っただろうか。隣からは、あの忌々しき音は聞こえなくなっていた。それでも僕の頭は一体どんな人なんだろうという考えでいっぱいだった。もちろん眠ることなどできない。
悪いことだと分かってはいる。どうにか少しでも覗くことはできないか。必死に背伸びをしてみる。覗けるはずがない…
どこか壁に隙間はないか。あるわけがない…
PDCAサイクル*を回し続ける。
*P=plan D=do C=check A=act
それでも僕は隣の席を拝むことはできなかった。本当に無力だ。
ふとバイトのことを思い出した頃には、もう4時を過ぎていた、今からでは1時間も寝ることができない。結局僕は一睡もできないまま、バイトに向かうことになってしまった。
これから12時間のバイトが待っている。しかし、僕は一睡もしていない。それは、木の枝一本持って戦争に行くのと同等の絶望感だった。
休むはずだったネットカフェで、僕は魂を根こそぎ削られてしまった。フラフラになりながらトイレに行き、部屋に戻ろうとした瞬間に奇跡は起きた。
隣の席が開いた。人が出てくる。
スローモーションに見えた。
やはり女性である。
顔は見えていない。
女性がヒールを履き振り返る。
鼓動が早くなる。
念願のご対面。
…………
目の前が真っ暗になる。頭は真っ白になる。
目の前には、中村俊輔似のおばさんが優しく僕に微笑んでいた